かじけんの詳細プロフィール
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はじめまして
出身地は埼玉県春日部市で、高校まで過ごした生粋の「かすかびあん」です。
春日部(かすかべ)と言えば「クレヨンしんちゃん」の街として有名ですが、
しんちゃんの絵を書くのは得意なので、子どもたちからは羨望の眼差しで
見られることが多いです(笑)
現在も埼玉県内に住んでいて、妻と子ども3人の父親として奮闘中です。
1981年8月生まれの獅子座で、父方の祖父と同じ誕生日です。
ちなみに、私の手相には「ますかけ線」があり、私が生まれたときに祖父はとても喜んでいたそうです。
「天下取りの相」
「天才肌」
「強運の持ち主」
などと言われているからですかね?
あまり気にしたことはないですが(笑)
料理との出会い
小学校教諭の両親のもとに長男として生まれ、3つ下の弟と7つ下の妹がいます。
なので、小学1年生から鍵っ子として学童生活を送っていました。
両親の帰りが遅いので、小学4年生の頃から夕飯の買い物や夕飯づくりをはじめ、洗濯ものや風呂掃除など家事をやっていました。
なぜか?
答えは、母を助けたかったから。
母の一日はまさに多忙を極めていました。
朝は7時に出勤。
その前に朝食づくり、洗濯物、子どもたちのお世話をする。
夜は7時に帰宅。
それから保育園のお迎えに夕飯の買い物、夕飯づくり、お風呂に子どもを入れて寝かしつけ、最後に仕事をして就寝。
父は亭主関白だから、母には文句ばかり。
もちろん、父のことは大好きなので批判するつもりはないし、そういう環境だったので自分にとっては当たり前の日々でした。
そこで自分に何ができるか?
母のためになることは何か?
そこが原点で1つずつできることを増やしていました。
もちろん、すべては母に教えてもらいましたし、料理に関しては大好きだった祖母にも教えてもらいました。
そこで感じたこと。
それは「料理の原点は愛情」ということ。
母も祖母も私が食べたいものを必ず聞いてくれるし、好きなものは覚えてくれる。
どんな状況でも作ってくる。
それって「愛情」以外の何物でもないんですよね。
だから、「おふくろの味」「母の味」って多くの方たちが語るのだと思います。
そんなこんなで料理を作るようになり、次のステップが「評価をされること」でした。
父はグルメな方なので、小学生が作った料理ですら「うまいのまずいの」をわざわざ言ってきました。
当然ながら、「うまい」以外の言葉はショックを受けるし「くそ―!」と感じるときはありましたが、それ以上に「次は必ずうまい!と言わせる」という思いの方を強く抱いた少年時代でした。
人生のモットー
「自分に関わるすべての人をハッピーにする!」
自分の一度きりの人生をかけて成し遂げたいことです。
もちろん「来るもの拒まず去る者は追わず」という線引きはしていますが。
小学生の頃に人生の悟りを開いてから、
・みんなを笑顔にしたい!
・自分に出来ることはなにか?
・人のためにできることは何か?
という考えや思いが強くなり、生まれたものが今掲げているモットーです。
さらに、その根底にあるものが、
「幸せはいつも自分の心が決める」
有名は詩人・相田みつをさんの言葉。
祖母の家に飾ってあって小学生の頃からずっと大切にしている言葉で教訓にしています。
人は楽な方に行きたがりますよね。
だから、都合が悪いことは決まって誰かのせいにする。
時には天気のせいにしてみたり、
電車のせいにしてみたり、
世の中のせいにしてみたり、
時代のせいにしてみたり。
でも、よ~く考えると分かるんです。
全部自分だな、って。
自分が楽しいと思えば楽しい。
自分が辛いと思えば辛い。
自分が苦しいと思えば苦しい。
自分が幸せだと思えば幸せ。
わざわざ人のせいする必要はないんです。とても単純なこと。
だからこそ、自分と向き合うことはとても大切ですし、自分を信じてあげることが大切なんです。それが「自信」になるんです。
料理の道を選んだ理由
小学2年生から高校3年生まで野球一筋で打ち込み、もちろん、その当時の夢はプロ野球選手!
野球のことを忘れたことがないほど、とにかく無我夢中で取り組んでいました。
素振りが大好きで、小学生のころから通学前に毎日やってました。しかも、そのときに必ず行うのがホームランを打つイメージトレーニング。もちろん、実況付き!
小学生の時に入っていた少年野球チーム「牛島バッファローズ」では、チームメイトに恵まれ、市内大会は常に優勝する強豪チーム。
埼玉県大会3位になれたことは当時、大きな自信となりました。
ちなみに、このチームの先輩にはお笑い芸人のザキヤマさんがいたんですよ!自宅も我が家からすぐ近所(笑)
中学校でも野球部に入部し、勝手に1人で朝練をするほど夢中でした。
チームは強く、市内大会は優勝。
県大会は惜しくもベスト8でしたが、創部後初の快挙だったので、良しとしましょう!
中学校時代は大きな決断を迫られることがありました。
それは、生徒会長になるか、野球部の部長になるのか、の二択。
大変お世話になった担任の先生から
「学年の先生たちで話しをして、梶川を生徒会長にしたい、と決まった。やってくれないか?」
と。
非常に迷いました。
とっても有難いし光栄な話しだし、大好きな先生たちの想いを無駄にはしたくない!
だけど、野球部の部長として先輩から指名してもらったことも嬉しいし、大好きな野球を存分にやりたいし、チームを導いて勝ちたい!
ただ、本当は自分の中では分かっていたのだと思います。野球への情熱が圧倒的に強いことに。
そして、野球部の部長になりたい、と決めていたのだと思います。
改めて担任の先生に、その想いを伝えたところ、快諾してもらえました。
その後に、先生から手紙をもらい、僕の気持ちを分かってくれていたと知りました。
その手紙はいまだに大切に保管しています。
高校は強豪校ではなく、勉強もそこそこ、野球もそこそこレベルのところに進学しました。家から近かったのが選んだ理由の1つではありますが、メジャーリーグに憧れていたので英語が勉強できる「人文科」という文系専門の科があったことが大きな決め手でした。
とはいえ、高校の野球部と言えば甲子園!
これを目指さない理由はない!ということで筋トレに目覚めて体を鍛える毎日。
また、ボールも軟式から硬式に変わり、難しさ、楽しさ、レベルの高さが味わったことのないものだったので、さらに、野球にのめり込みました。
しかし、高校2年生の春に重度の腰痛を患い、そこから思うようなプレーができなくなり、自信を失い始めるとともに、超高校級の選手を目の当たりにしたことで、夢を諦めるべきだと悟りました。
そして、高校3年生の夏、最後の大会が終わると同時に新しい夢を見つけました。
それは「保育士」。
子どもが大好きで、兄弟や従兄弟も年下が多く良く面倒を見ていた影響もあり、
保育士になりたい!と一念発起。
保育士の資格を取得できる大学を選び、推薦で行こうと決め、親に承諾書を書いてもらおうと話しをした時に事件が起きました。
「だめ!」
母の猛反対。
「えっ!?なんで!?」
「男が一生やる仕事ではない
偏見極まりない理由とおもい、必死に抵抗と反抗を。
しかし、涙ながらに訴えてくる母を見ていて諦めるべきだと思いました。
小学校教師をしている両親だからこそ、より安定した職についてもらいたいのだろう、とその当時は思って自分を無理やり納得させました。
それに、勉強したくない、だから、推薦で入れそうな大学を選んだ、という思いが働いてしまう。
ただ、完全に納得できない自分がいるので、滑り止めは受けず、受かるはずもない有名大学を受験し、見事に全滅。
浪人生となり、翌年、無事に合格。
母が喜ぶ道を選択し進んでいる、教師の道を進んでいる自分。
付きまとうのは「違和感」。
「何か違う」と本気になれない自分。
大学3年生の前期まで、教職課程を受け単位をとり、必要な研修もすべて受け、やるべきことはきっちりとやってきました。
しかし、その時は訪れました。
本気で学校の先生を目指している同級生。
その当時、教師が起こす事件が頻発。
「本気ではない自分が教員免許を取得していいのか?」
「本気で取り組んでいる同級生に失礼ではないか?」
「教師になりたくなくて、なってしまった自分に教えられる子どもたちに失礼ではないか?」
こんな思いが全身を駆け巡り、一大決心をしました。
「お母さん、ごめん、教師にはならない」
母を悲しませたくない。
でも、これ以上、自分に嘘はつきたくない。
感情がグチャグチャになるほど辛かった瞬間でした。
父からは好きな事をしろ、と言ってもらえていたので、母を説得してくれたのだと思います。
そして決めました。
「社長になろう!」と。
男というものは、なぜか父の背中を超したいと思う性質をもっている(?)ようで、比較対象はいつも父でした。
しかし、その父の背中は大きかった。
教師の中でもエリートコースというものがあるらしく、父はまさにその道を進む人でした。
何よりも、教頭試験を一発合格、翌年には校長試験を一発合格。
この時の2年間、父の姿は背中しか記憶がありません。
それほど、毎日欠かさず勉強をしていました。
とてもとても、この背中は越せない。
教師の道をやめた理由の1つでもありました。
だったら、どうやって超えるか?
そうだ!起業して社長になろう!
そうすれば、学校のトップである父を越したことになるのでは?
と何とも単純な考え(笑)
いざ決めたら即行動!ということで、社長になるにはどうしたら良いかを検索しまくり、答えを見つけました。
それが「アメリカでは起業する時にまずは飲食店で働く」というもの。
売上管理や企画・仕入れ・オペレーションづくり・顧客対応・顧客管理多岐にわたる人脈形成・マネジメントなど、様々な要素が詰まっているため多くの方が飲食店で勉強して起業するらしいのです。
嘘か本当化はどうでもよく、答えを見つけたからこれに決めた!
ということで、就活は飲食店を経営している会社に。
もちろん、条件はあります。
・四大生として受け入れてくれる会社
※母に申し訳ないという思いがあるため、せめてもの想いでこの条件は付けました。
・和食店を経営している会社
※ちゃんとした理由はありますが、またの機会にお話しします!
・セントラルキッチンが無く、店舗で食財を一から仕入れて料理にして提供している会社
※飲食店でのアルバイト経験から生まれたこだわりで、セントラルキッチンから店舗にきたものを温めて提供するのは料理ではない
という持論です!
※それ以上に家族に自分が作った料理を食べてもらいたい!その料理で家族を笑顔にしたい想いが一番!
以上の3つ。
そこで出会ったのが、東京・新宿で創業1924年の老舗天ぷら専門店を経営しチェーン展開している会社。
決め手は上記3つの条件に加え、接客・調理を基礎から学べ、マネジメントも学べる環境にあったこと、そして、父が天ぷらが好きだったからでした。
目標は30歳までに店長になり、独立をする!
会社員としての学び
2005年、老舗天ぷら専門店をチェーン展開している会社に入社。
接客・料理の修行が始まる。
目標は決まっていたので、早く実績を積み店長になるために
比較対象にしていた人が同い年だけど5年先輩。
この先輩がすごい!
天ぷらがとても上手。料理が丁寧。仕事がきれい。
早く追いつきたい、早く5年のギャップを埋めなければ!
できる仕事を増やすため、先輩に追いつくため、休憩もとらずひたすら実践の日々。
毎日、海老は250尾、かき揚げ用の小海老は400尾、穴子100尾、鱚100尾、真鯛2尾など。
最初のうちは全然間に合わず、終わらず諸先輩たちに手伝ってもらいながら必死にやりきる毎日。
繁盛店なので開店から閉店まで忙しい毎日。
来る日も来る日も同じことの繰り返し。
その中で大切にしていたこと。
それは丁寧で綺麗な仕事をすることでした。
スピードだけを求め、手が早くなることはそんなに難しいことではありません。
しかし、それをしたくなかったのです。
なぜなら、すべてのお客様に対して満足してもらいたかったから。
笑顔でお帰りになっていただきたかったから。
決して安くはないお値段を支払っていただくお客様に、期待以上のものを提供したかったから。
なので、一つ一つ丁寧に愛を込めて仕込みをしました。
結果として、正しいことを繰り返すことで無駄が一切ない仕事が身に付き、誰よりも手が早い技術を身に付けました。
また、そんな姿を認めくれる先輩たちや多くのお客様がいてくれたお陰で、モチベーションは保たれ、出来る仕事が加速度的に多くなっていったのです。
お客様に提供する料理を作る前に、料理人が必ず通る道、それが「賄い」です。
しばりは金額だけ。
献立作りから仕入れ、料理まですべて自分一人で出来る夢のような時間が大好きで、いろんなことにチャレンジしました。
定番の和食系から洋食、中華まで、ジャンルは問わず、皆に希望を聞いたり自分が作りたいものがあれば何でも作りました。
もちろん、天ぷらを揚げて評価をもらい、お客様に提供して良いレベルかどうかを判断してもらうこともありましたが、お客様に提供していない寿司を賄いでは握ることもありました。
ただ、賄いを作れる時間は30分程度ですし、人数も多いため一度に作る量も多い。
そこが一番の難しさでしたし、時短料理の原点となりました。
また、食べる人数も多く、食べる時間も違うため、味付けの工夫も必要となりました。料理はどうしても時間がたつと味が濃くなるため。
どの時間に味のピークをもっていくことで全員が美味しく食べてもらえるかという計算をしながら料理をつくる経験も積むことが出来ました。
3年目には天ぷらをお客様に提供するようになり、刺身や一品料理も自分が作ったものを提供し始めましたが、賄いだけではなく専門書を買い集め知識をインプットし、家で実践することを密かに続けていたので、早い段階でお客様からご好評をいただくことができました。
自分の作った料理で喜んでもらえるのは最高に嬉しい!
もちろん、レストランなので常連さんであれば好みが分かるので作りやすいのですが
一元さんは全体の70%なので、正直、恐怖というかドキドキ感が強いのです。
ましてや、天ぷらは味見をして提供することが出来ない特殊な料理なので。
だから、お客様が天ぷらを口にする瞬間まで密かに確認しています。
そこで、「おっ!」とか口元が「にやっ」となると安心感を得ることができる。
そうでないと、ずっとドキドキしています。これは未だにです。
それだけ天ぷらを作る難しいし、日本人は食べ慣れ親しんでいるので。
この間にも会社から認められ、入社2年目からサービストレーナーの訓練生に選ばれ、接客の基本から飲料知識や世界基準のサーヴィス、またトレーナーとしての知識・技術も学ばせてもらい、4年目には新規店舗立ち上げの接客全体を任されることに。
そこでは従業員の初期教育はもちろんのこと、効率の良いオペレーションづくり、メニュー作成、顧客管理やデベロッパーである百貨店担当との窓口も行うなど、多岐にわたり経験してきました。
入社5年目には会社内で最高級店舗である、天ぷらと懐石を提供する店に異動となり、ここで料理の幅を大きく拡げることができました。
懐石料理は一つの献立内で数多くの食財を使い、料理の種類も多く、また、献立は毎月変えていくので年間で考えると数百種類の料理を覚えることが出来ました。
さらにこの店舗では各月でワインと特別献立を提供する企画を開催していました。
献立のテーマはフレンチ・イタリアンを取り入れたワインに合う新しい和食。
そして、この会をプロデュースしていたのが私の師匠だったのです。
この師匠は小学生(昭和30年代)の頃からフランスで通用する一流の料理人を目指していたそうで、実際に10数年フランス・イタリアで修業をされてきました。
表に出ることが好きではなかった方なので公には知られていませんが、知る人ぞ知る有名な方です。
一昔前に絶大な人気があった料理人たちが勝負する番組のプロデュースをし、またその出演者は全員知り合いか後輩たち、というほど、すごいお方なのです。
なので、大変有難いことに、師匠からはフレンチとイタリアンの基礎から応用まで徹底的に教えてもらいましたし、レストランで提供する料理から家庭料理までも教えてもらいましたし、もっと知りたくなりフレンチ・イタリアンの本を30冊以上買い集め、徹底的に勉強もしました。
実際に仕事では天ぷらをメインにしているのですが(笑)
7年目にはバーをモチーフにしたコンセプト天ぷら屋さんに異動し大抜擢で店長に昇格しました。
そして、最初に始めたのがワインと特別献立の会を毎月開催することでした。
なぜだか分かりますか?
答えは、師匠から新しい料理を教えてもらいたいから!
よって気が付けば、その会の献立は天麩羅なし!
正当フレンチまたは正当イタリアンとワインを提供する会に変えてしまいました!
和食にはない知らない料理法がたくさん出てくるので、本当に面白い。
そして、その技術を応用して和食もレベルを上げることが出来る。
メインとなる天ぷらの技術もおのずと向上してくる。
そうしているとお客様からの評価があがり、ご常連様が増えてくる。
結果として売上が伸び、会社から評価され翌年には次長に昇格となりました。
次長になった入社9年目は銀座店の店長を兼任し、また新しいことに
チャレンジをすることにしました。
それが「天ぷらと日本酒の会」。
1つの酒蔵とコラボし、その蔵から5種のお酒をそしてそのお酒に合わせた
天ぷらを中心とした献立を提供。
しかも、日本酒は仕入れた分、飲み放題。
この企画が大ヒットし、ひと月に3日間開催で毎日満席になるほど大盛況に。
これまでに40以上の酒蔵にお世話になりました。
このときの献立を作るときに意識していたのが、
「季節感」
「蔵のある土地の食財」
「蔵のある土地の郷土料理」
の3つ。
これで多くの郷土料理を学ぶことができ、生産者さんとのつながりもできました。
入社12年目にはこれまでの功績が認められ、部長に抜擢され8店舗を統括することになりました。ここでも各店で企画が行えるようにしたり、お客様も働く仲間もより楽しんでもらえるよう、笑顔になれるようにマネジメントをしながらも現場に入り、実際に料理や接客を教えることでより精度が上がるように取り組んでいました。
さらには、商品開発にも携わり、新しい事業を2件立ち上げました。
でも、一番楽しいこと、嬉しいことは後輩たちからリクエストをもらって賄いを作り喜んでくれる時、アルバイトの主婦さんから料理の作り方を教えて欲しいと言われ教えてあげて、後日、家族が喜んでくれました!と報告してもらえる時。
やっぱり、身近な人が喜んでくれる笑顔は最強ですね!
詳細な実績
いまの夢と使命
『日本人が日本人としてのアイデンティティをもち、世界と対等に渡り合える国にすること』
大学生の時に掲げた人生の目標であり夢です。
高校2年生のときに南アフリカから留学生がきて、お世話係に。
そのときに、彼からは南アフリカのことを事細かに教えてもらい感心するほどでしがた、いざ、自分が日本のことを聞かれたら答えられない。
大学に行ってからも外国の友だちは自国のことを誇らしく語るのです。
そして、好きな食べ物はその国の郷土料理。
ちょうどその時にニュースで耳した子どもの好きな食べ物ランキングで和食が3位までにすら入っていない事実。
これを目の当たりにした時、このままだと日本はダメになる、何とかしなければ。と、考えに考え出した答えが上記の目標であり夢でした。
そして、それを実現するために必要なことであり、やりたいことが「食を中心とした街を創ること」。
「衣・食・住」の中でも【食】は命にかかわることであり、文化の中心でもあり、歴史を紐解いても人類にとって最も重要なことなのです。
つまり、食は中心となるべきもので、街全体が食を中心として経済を回し、子どもたちにとっても学びの多い誇れる故郷をつくることで強いアイデンティティが生まれるのです。
その中心となる【食】の世界を作っているのが『飲食店』です。
子どもの頃に外食した記憶は、大人になっても覚えていますよね。
大人になり、育った街を出たあとに帰省した時に、あの懐かしの飲食店がなくなっていたらガッカリした経験はありませんか?
そうんなんです。飲食店はふるさとの一部なんです。
さらには、今、生活する中で飲食店に行くことは、息抜きだったり、ご褒美だったり、生活の一部だったりと必ず関わっているものです。
それだけ、みんなにとってはとても大切な場所です。
だけど、経営難や継承問題などで消えていく飲食店はたくさんあります。
これは、みんなの大切な場所が消えていくことと同じことだと僕は考えています。
逆を言えば、飲食店が元気ならみんなも元気になるっていうこと。
だから、僕の経験を活かして多くの飲食店を救いたいのです。
さらに、これらのことを実現するために必要なこと、
それは「あなたの力」です。
なぜならば、人々が最も多く食事をする場所が家庭だからです。
だからこそ、家庭料理はとても大切なものであり重要なものであり、すべての基礎となるものなのです。
そして、あなたがご家庭で料理を作るとき、家族の顔を思い描きながら、愛情を込めて作っていますよね。
そうです。
この愛情が重要なのです。
そして、料理では一番大切なものであり、料理の原点です。
とはいえ、現代社会においては、皆が忙しすぎる。
時間がない。
仕事に家事に子育てに追われる毎日。
そして、必ずやらなければいけない食事作りが大きな負担。
献立を考えるのさえ嫌になる。
あなたも、その一人なのではないですか?
私が小学生の頃、同じように多忙な日々に追われていた母を少しでも楽にしたい、笑顔にしたい、そんな思いで家事をし、料理をしていました。
そして、いま。
毎日、家族のために頑張っているあなたを手助けしたい。
あなたを笑顔にしたい。
料理を好きになってもらいたい。
さらに、あなたの笑顔があなたの大切な人の笑顔に繋がると信じています。
信念・理念・モットー
かじけんの『信念』とは?
『自分が笑顔になること、全員を笑顔にすること』
かじけんの『理念』とは?
『食を通して豊かな社会を実現する』
かじけんの『モットー』とは?
『関わる人すべてをハッピーにすること』
最後に・・・
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!!
こんなに長い長いプロフィールを最後の最後まで読んで頂けるなんて!!泣くほど嬉しいです!!
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ここでは経営についてのマインドやノウハウをメインにお伝えしながら、あなたの人生をより良く送ることができる内容をお伝えしています。
さらには、時短料理についてはもちろんのこと、僕の師匠である伝説の料理人から伝授された料理法やレシピ、さらにはプロの料理人だからこそ仕入れられる食財情報やレストラン情報など多角的な発信をしています。
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はじめまして!
かじけんです。